赤松氏は村上源氏の第六皇子具平親王からでた村上源氏で、すでに鎌倉時代
九条家領である播磨国佐用荘内の赤松村に住んで赤松氏を称した。
 茂則の子則村(円心)は、元弘の乱(1331)では、はじめ後醍醐天皇方として活躍したが、
新しく発足した建武政権は、かれに恩賞として播磨国佐用荘の地頭職を与えたにすぎず、
これを不満とした則村は途中から足利氏に走り、こんどは尊氏から播磨の守護に任命された。
 則村の嫡男範資も父と行動をともにして、のち摂津の守護となり、子の光範がその跡をついだ。
 また、二男の貞範は美作の守護となった。
範資の死後、尊氏の力によって則村の三男則祐が惣領家に入り、播磨、美作、備前の守護となり、
一族の中心的存在となった。この則祐は二代将軍義詮にしたがって功をたてたが、その子義則
義満の信任を得て、幕府の侍所所司となり要職を占めた。
赤松氏の全盛期は、山名氏が幕府に抗しておこした明徳の乱(1391)で山名氏討伐に従軍、乱後
山名氏の旧領の一部を功として与えられた時であった。
とことが、四代将軍の義持は、則村の二男貞範の孫、持貞を重用して、
惣領家の播磨守護を授けたのである。
幕府の態度に反撥して満祐は白旗城に叛き義持に敵対するが一旦は許された。
義持のあと義教も満祐の所領をさいて、庶流の満貞の子貞村に与え重用した。
これは幕府が有力守護の勢力削減を考えて行った政策で、
すでに一色義貫や土岐持頼らも勢力をそがれていた。
ここにおいて身の危険を感じ、1441嘉吉元年、六代将軍、義教を京都の自宅に招き殺害した。
(嘉吉の乱)である。
 この乱後、幕府の討伐をうけて赤松氏の一族は滅亡した。
その後、政則が功をたて加賀半国の守護となって赤松氏を復活させた。
それでもあまり振るわず、やがて領国は浦上・宇喜多などの播磨の国人に奪われて衰退した。
 赤松氏の支族は多く次の諸氏がある。

 
 三枝・別所・櫛田・上月・間島・太田・福原・水田・宇野・徳平・佐用・豊島・中島・淡河・大村・江見河原・
柏原・野中・萩原・釜内・安室・福島・山田・在田・本郷・広岡・桑山・永見
・神出・尾崎・松本・多田・賀屋・神吉・尾上・有馬

 

 赤松義則
義則は、具平親王の後裔にて、則祐の長子、身体が短小なるをもって世に三尺入道という、佐々木道誉の外孫たるをもって三代将軍義満の寵愛を受ける、建徳二年、家督を継ぎて播磨、備前の守護となり、左近衛将監、上総介、兵部少輔を経て従四位下大膳大夫に進み、また山名・一色・京極の諸氏と共に侍所所司に補せられ、京都の訟獄を聴断ず、これを四職と称す。ついで美作守護を兼ね、さらに因幡智頭郡、但馬朝来郡、摂津中島の地を増賜される。襲職は12歳。弥勒寺本堂建立は23歳の時。家祖具平親王は性空上人に帰依深く、また父則祐は比叡山律師に任ぜられる。
のち髪を剃りて性松と号す、応永34年9月20日卒す。享年70歳