日は入りて月まだ出でぬたそがれにかかげて照らす法の燈


             






 弥勒寺、円教寺を開かれた性空(しょうくう)上人は、京の人で橘善根の次男として延長6年、(928)延喜10年(910)にお生まれになった。寛弘4年(1007)98歳80歳の生涯をとじられるまで一心に修行に励み、大変多くの人々にその徳を慕われた。上人の弟子延昭の書いた「悉地伝」には上人の在世中の20にわたる徳行、奇特が載せられているが、その他にも高僧にありがちな超人的な伝承が多い。
 
 上人は、お生まれになった時、左の手をしっかりと握っておられた。両親が不思議に思われ手を開いてみると、一本の針を握っておられた。この針が上人の生涯を暗示していたのである。針というものは、糸を使ってどんな小さな布でさえも、それらを縫いあわせていくと立派な衣服にも仕立てることができるのである。針の素晴らしい働きで変幻自在なのである。播州圓教寺記に「針ト云字ハ金篇ニ十ノ字ヲ書クナリ、金ハ一切衆生ノ仏性、十ハ十界ナリ、十界皆成ノ法華ヲ修行シテ、即身成仏シ玉ウベキ瑞相ナリ」と、また播州書寫山縁起に「普賢菩薩を金剛針と名づけたてまつる、針の糸をみちびくがごとく、普賢菩薩一切衆生を導きたまふ」と記されている。この針のような人間となられた上人は普賢菩薩の生れ変わりであるとする伝承がある。そのせいか上人は幼少の頃から回りのものと違って、人に交わるのを好まれず、殺生はもちろんのこと、弱いものを決していじめたりされなかった。
 
 10歳の時、初めて経を習われる。これは、妙法蓮華経というお経で、このころには上人は出家の志を持たれたのである。すぐには実現されなかったが、36歳で念願かなって出家された。とはいっても、10歳の時から怠けることなく法華経を勉強されていたのである。そしてご自身の出家の遅れた分、一生懸命修行に励まれた。上人は出家されてすぐ圓教寺を開かれたわけではない。まず九州の霧島山、背振山など人里離れた山岳を選んで修行を始められた。一日も休まず法華経を読むという行である。
 
 39歳の時には、法華経八巻を暗誦されている。この時に現れるのが、乙天、若天童子で、常に上人のそばに仕えて、上人を守り、行の安全を守り、身の回りを世話した。童子の姿をしているが、乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で怪力を持ち、神通力がある。上人の生涯を通じて、そばに仕え、上人の滅後は、山の守護神、護法童子として、開山堂横に奉られている。
 
 九州での20年余りの修行を終えた上人は新たな霊地を求めて旅に出られる。この姫路に来られるまでにも良さそうな所はあったが、ことさら上人の心にとまる所はなかった。その旅の途中、気が付くと一行の行く先に雲があった。紫の雲で、一行の進むのと同じように動いた。あたかも、それが上人を導いているようであった。そして今の姫路市の飾磨の付近にさしかかった時、雲が止まった。雲は山をつつんで動かない。上人は、これを仏の導きと思われ、その山に入られた。山へ登る途中で、白髪の老人が現われ、上人に告げた。「この山を書寫といい、山に登る者は菩提心を発し、この山に住む者は六情根を清む」と。実は老人は、文殊菩薩の化身で、乙天、若天二人の童子をつかわせたのも文殊菩薩であった。そして老人は山上に三つの吉所をも示している。第一は後の講堂の地、第二は摩尼殿の地、第三は准胝峰(白山)がそれに当たる。後に上人は、白山の地で六根清浄を得られる。六根とは、眼、耳、鼻、舌、身、意の六つ。つまり人間の体の基礎となるそれらが清浄になるのである。
 
 仏がそうである。我々凡人のそれらは濁っていて、物事の真理を見ることができない。上人は、一歩、仏の位に近づかれたということになる。天元元年(978)上人御歳69歳の時である。書寫の聖が悟られたということは、播磨はもとより、都にまで、そして禁裏にさえ知られる所となった。
 
 永観2年(984)3月15日の夜、夢に金剛薩垂が現れて両部の大法を授けた。この二つの出来事が一層性空の名を世に広めた。書寫の聖を訪ねて、老若男女、身分のあるなしに関わらず、人々は上人に縁を求めたのである。大江為基は恵心僧都と山に登り、上人の徳行を讃える詩を作ったという。恵心僧都は上人こそ心の師であると述べている。その他にも、花山法皇、具平親王、藤原道長等皇室及び貴族、慶滋保胤(寂心)その他多くの学者、文人、国司藤原季孝以下の在庁官人、あらゆる階層から崇敬を受けられた。その中でも花山法皇は、二度も書寫に臨幸され、特に深く帰依された。陰謀によって退位、出家された法皇は、傷心を癒すが如く、書寫に向かわれた。また法皇は、西国霊場の中興とされているが、この時に上人から霊場のことを聞き、三十三ヶ所の寺に詣でられたと伝えられている。法皇の巡礼に、上人もお供をしたと伝える者もある。
 
 このように山上も色々な人が訪ねてきて、賑やかになると、上人はさらに閑地を求めて書寫の北に通宝山弥勒寺を開いて隠棲された。幼い頃から、賑やかな所を好まず、余り人と交わることを避けられた上人らしい行状である。上人は高僧・重客と対応される時でも、相手が多く言う間に、一、二言を答え、考えこんでいるような態度でおられたという。
 
 上人の奇特、徳行は非常に多く、「悉地伝」や「遺続集」等に載せられている。上人に関する説話は、圓教寺のものの他にも多くの書物に記されている。上人の声望は、ますます広く伝えられ、書寫山圓教寺の名を一層高らしめていったのである。
 
 弥勒寺に隠棲された上人は、寛弘3年(1006)正月1日立願して大般若経を書写し、翌4年(1007)3月10日(旧)定印を結び西に向かって座禅しながら入滅された。門弟たちは慨き悲しみながら14日に火葬し、七々日(49日)の間念仏を絶やさず、四十九日に源信を導師として上人が生存中に書写した大般若経の供養を行った。