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ハプスブルク朝太陽が没せざる大帝国
 

 
マリアハプスブルク家の歴史は、ルドルフ一世が神聖ローマ帝国の国王に選出された一二七三年から、この王朝が崩壊する一九一八年までの約六五〇年のことをさす、この一族の祖先たちは、ほぼ一○世紀ころから、ライン河上流のスイス北東のアールガウ方面で活動を始めていた。
 ハプスブルク家の始祖といわれるルドルフ一世がドイツ王に選出されたのは、この一族の勢力がそれほど高く評価されていなかった証拠である。というのは国王を選ぶ資格のある七人の選帝侯たちは、自分たちの権益や既得権が侵害されることのないようにとの意図から、ハプスブルク家のルドルフを選んだからである。マクシミリアン1世
 しかし選帝侯たちの思惑は外れた。ルドルフ一世は優れた君主で、ドイツ王に就任するとめきめきその才能を発揮し、ハプスブルク家の発展の基礎を築いた。一族の発祥の地であるスイスのアールガウ方面は、やがてスイス誓約同盟によって蚕食されてゆくものの、同家はルドルフ王のもと、その代替地としてオーストリアからべーメン(ボヘミア)へと進出した。当時、この地方はスラブ民族のプシェミスル家のオットカル二世によって支配されていたが、ルドルフは彼を破って、ハプスブルク家が中欧から東欧方面へと発展する足掛かりを得た。
 しかし、彼が築きあげたハプスブルク家の王国は、孫の世代になるとはやくも退潮の兆しをあらわし始めた。王冠もまもなく一族からは失われ、兄弟の間で領地を分割しあったために、一四世紀から一五世紀はじめにかけての同家は、見る影もなく衰えてしまった。一四四〇年に王家の継承者フリードリヒ三世が再びドイツ王に選出された時には、一族はどん底状態に陥っていたのである。

 皇帝フリードリヒ三世は敵が襲ってくると真っ先に逃げ出すような虚弱な君主だった。しかし彼は、いかなる不幸に遭遇しても決して諦めず、忍耐強く幸運がくるのを待った。するといかに強い敵でもこらえきれずに皇帝の前から立ち去ったり、陣没したりした。ハプスブルグ家には彼のように、一見すると弱々しそうだが、きわめて忍耐強い君主が少なくなかった。丈夫で長生きすることは、まぎれもなくこの王家の特色のひとつである。
 しかし、ただ敵前から逃亡するだけでは王家は発展しないし、存続することもできない。ハプスブルク家がヨーロッパ全域に支配を拡大することができたのは、幸運に恵まれたからである。そして幸運のきっかけとなったのが、結婚政策の的中であり、その最も代表的な例がマクシミリアン一世の場合である。
 フリードリヒ三世の長男マクシミリアンは「中世最後の騎士」と通称されるように、父とは違って勇敢で敏捷、かつ明朗闊達な若者だった。彼は一四七三年に時を極めるブルゴーニュ公国のシャルル公の一粒種の娘マリアと結婚した。この結婚によってハプスブルク家は、オーストリアの片田舎からヨーロッパ中央に進出したばかりではない。マクシミリアンの時代に飛躍的な発展を遂げた。
 まず彼は、マリアとの間に生まれた息子と娘をスペインの王子、王女と二重に結婚させた。そのうち息子フィリップとスペイン王女ファナの間には、六人の子供が生まれた。その長男カールは、やがてスペイン王国を相続することになる。ハプスブルク家にとってはまったく幸運としか言いようのないことだったが、スペイン王家の縁者がつぎつぎと死去し、最終的にはカールがスペイン王カルロス一世として君臨することになった。
カール五世 この時代のスペインは、イベリア半島の本国のほかにも、イタリアのナポリ王国、シチリア島、サルデイニア島ばかりではなく、コロンブスが到達してまもない新世界のヌエバ・エスパーニャまでがその版図に含まれていた。しかもスペイン王カルロス一世は、神聖ローマ帝国の皇帝にも選出され、カール五世と名乗った。世界史上でカール五世ほど広大な領域の君主になった者はない。彼の帝国に関して、「太陽が没せざる大帝国」といわれるのも当然である。
 マクシミリアンは、もう一つの重要な二重結婚を成立させた。今度は孫フェルディナントとマリアを、ハンガリーの王子ラヨシュ、王女アンナと二重結婚させたのである。このたびも運命の女神はハプスブルク家に微笑んだ。
 若いラヨシュ王は一五二六年、ハンガリー南部に侵攻したオスマントルコの軍団を迎え撃って、武運つたなく陣没した。ハンガリー王家には他に王子が存在しなかったために、その王位はハプスブルグ家のフェルディナントが継承することになった。当時のハンガリー王はベーメン(ボヘミア)王も兼ねていたために、ハプスブルク家は一挙に中欧から東欧にかけての大国家を統治することになったのである。




 
「戦は他人にさせておけ、幸福なオーストリアよ、汝は結婚せよ」
 これはマクシミリアン一世の結婚政策があまりにも、うまく当たったことを言うとともに、ハプスブルク家の政策の最大の特徴を言い当てて妙である。結婚政策はその後もこの一家の最大の武器となった。フェルディナント一世
王子、王女を縁組させるためには、なんといっても子供の数が多くなくてはならない。その意味ではハプスブルク家ほど恵まれた王家はなかった。子供の数が一○人を超えることは珍しくなかった。フェルディナント一世とアンナの間には一五人の子が生まれ、後の女帝マリア・テレジアは一六人の子の母となった。
 ところでカール五世はフェルディナント一世の帝国は、あまりに広大無辺だったから、兄弟は相談しあってスペイン王国は兄カールが、一方、オーストリア、ベーメン、ハンガリー方面は弟が統治することとした。ここにハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分離したのである。
 政治的にも経済的にも、また宗教政策からいっても、マドリッドとウィーンはかなり隔たっていた。一六世紀から一七世紀にかけては、さまぎまな点でスペイン系の方がオーストリア系よりも優れていた。特に三〇年戦争の間などはウィーンの皇帝は、マドリッドからの援助なしには、とうてい新教徒たちとは渡り合えなかった。
 とはいえ、この時代はマドリッドとウィーンが枢軸を形成して、ルイ十三世、ルイ十四世時代のフランスに対抗するという図式ができあがった。ハプスブルクの両系は、しばしば相互結婚することによって、両家の結束を固くした。

マリア・テレジア 一八世紀に入るとともにスペインは、ブルボン家の支配下に移った。それまでマドリッド系に押されぎみだったウィーン系ハプスブルク家が、再び栄光の時代を迎えるのは、マリア・テレジアが即位してからである。この偉大な女帝が父カール六世急逝のあとをうけて君主の地位についたのは、わずかに二十三歳の時だった。しかも皇帝薨去の喪もあけないうちに、隣国プロイセンのフリードリヒ二世が、シュレージエンを襲うという危機に直面した。
 並の女性ならばもうそれだけで立ち往生してしまうところだろうが、ハプスブルク家きっての才媛マリア・テレジアはちがった。彼女は即位まもなくして起こったオーストリア継承戦争と七年戦争という最も苦しい戦を雄々しくたたかい、プロイセンにシュレージエンだけは奪われたものの、父から受け継いだその他の領域は立派に守り通した。
 マリア・テレジアは、プロイセンに奪われたシュレージエンを奪還することをめざして全力を傾け、従来は貴族の専横にゆだねられていた統治体制を改め、近代的中央集権国家をつくりあげた。
軍隊制度、徴税制度、官僚体系をはじめとして、あらゆる方面に改革の手が加えられた。それは宗教政策から教育制度にまで及んだ。
 マリア・テレジアは帝国全土に小学校を普及させたが、これは女帝の改革のなかでも画期的なことで、これによってオーストリアの文盲率はがぜん少なくなった。女帝の改革によってオーストリアは、初めて近代的国家に変貌したのである。
 マリア・テレジアの改革によって中央集権国家になったハプスブルク王朝は、一九世紀を迎える
と、近代国家のかかえる内部矛盾に苦しむことになる。特に一八四八年の三月革命以後のオーストリア帝国では、民族主義の嵐が吹き荒れ、ウィーンの政府はそれに適切に対処することができなかった。帝国内のハンガリー人、チェコ人、ポーランド人、ルーマニア人など一一におよぶ諸民族が、それぞれの自由と独立を求めて皇帝フランツ・ヨーゼフに強く迫った。

 ハプスブルク家の事実上最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ一世は、八六年の長い人生のうちの六八年間を皇帝として帝国に君臨した。彼の時代のオーストリア帝国は、一八五九年にソルフェリーノにおけるイタリアとの戦争に敗れ、一八六六年にはケーニヒグレーツでプロイセン・ドイツに完敗を喫した。その翌年の一八六七年にはハンガリーのマジャール人の圧力に屈し、彼らになかば独立を認める形で、オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立をみた。
 こうしてハプスブルク王朝は二〇世紀に入る頃には、いつ崩壊してもおかしくないほどに凋落しつつあった。辛うじて帝国の象徴フランツ・ヨーゼフの存在によって、国家は維持されている状態だった。やがて一九一四年六月に、皇帝の甥フランツ・フェルディナント大公がサラエボで暗殺された事件が火種となって、第一次世界大戦が勃発した。その戦争のさなかの一九一六年十一月、フランツ・ヨーゼフ帝が八六年の長い苦難の生涯を閉じた。
フランツ=ヨーゼフ一世 彼の後を襲ったハプスブルク家最後の皇帝カール一世には王朝の崩壊を防ぐ手だてはもはやなかった。一九一八年の終戦とともに、ウィーンでは皇帝の退位を求める声がにわかに高くなり、カール一世はついに退位文書に署名した。ここに六五〇年にわたるハプスブルク王朝は滅亡したのである。
 ハプスブルク家の事実上最後の皇帝フランツ・ヨーゼフは、帝国内の十一もの民族がそれぞれの独自性を保ちつつも、互いに協力し融和しあって一つの国家を形成することを理想としていた。それは彼がモットーとして掲げた「一致協力して」(ウィーリブス・ウーニティス)からも、うかがうことができる。エリザベート皇后
 ハプスブルク王朝の最大の特徴は、諸民族の融和につきるであろう。ハンガリー人やチェコ人、ポーランド人たちは絶えずウィーンの皇帝にさまぎまな要求を突き付け、難題を吹っかけては皇帝を困らせていたが、それでも大戦末期の一九一七年から一八年に至るまで、本気でハプスブルク王朝の瓦解を予想していた者はごくわずかだった。
 この王家が滅亡した後「ハプスブルク王朝は存続させるべきだった」と嘆いた政治家のひとりにイギリスのチャーチル首相がいるが、大きな国家のなかに小民族が肩を寄せ合うようにして共存することができたのは、ハプスブルク王朝だけだった。
 それはたとえば、後のナチスの政権や共産主義による支配のことを思えば、理解するのに難くないであろう。東欧の小国家は、やがて共産主義陣営に組み込まれたときに、ハプスブルク帝国の中にあって、それぞれの独自性を発揮することができた時代のことを懐かしく回想したにちがいない。

 今日のヨーロッパ共同体(EU)には、諸民族の融和という精神が根底にあるが、これはハプスブルク王朝においては当然のことと考えられていた。「ヨーロッパは一つ」という概念は、すでにハプスブルク王朝においては実現されていたのである。

参考文献:『歴史Eye』1994年9月号 日本文芸社